東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)から数日経って (帰宅)

2011年3月11日の午後3時頃に発生した「東北地方太平洋沖地震東日本大震災)」の発生から今日で4日が経過した。当日の地震の衝撃、帰宅後にTVやインターネットを通じて知る津波の恐怖、被災者の状況、そして次々と発生する福島原発事故の様子に、心が疲れてしまった。
ふと、4日間止まっていた日記を遡って書くと、心が落ち着き、前向きになれることを感じた。そこで、まだ被災地では行方不明者が多数いらっしゃって、避難している被災者の方々は今日の生活にも困窮されているが、自分自身が前に進むために、認識している事実と何を感じたかを文字に起こしてみたいと思う。

3月11日に地震発生後、徒歩で帰宅した話

地震発生

いつものように職場(大手町にあるビルの9階)で業務にあたっていると、足下にグラグラと細かい揺れを感じた。「あ、地震だな」とオフィスにいる方々と目を合わせた。そして次の瞬間から、今まで経験したことがない大きな揺れに変わり、キャスターがついている椅子が転がってしまうほどだった。
「(これ以上大きな揺れになるとビルが倒壊するのではないか)」と感じながら、携帯電話を握りしめていた。揺れは1分以上続いたように感じた。また、揺れは一度だけでなく、少なくとも二度は生じたと記憶している。
揺れが収まると、パソコンのメールを通して、家族や友人たちの無事を確認した。お台場の方では火事の煙が上がっていたそうだ。
その日の午後4時までに仕上げなくてはならない仕事があったが、上司の指示により業務終了が告げられた。

家に向かい出発

全ての電車が止まっているというアナウンスを耳にし、帰宅するには徒歩かタクシーという選択を迫られていた。しかし、ふとビルの下を見ると、ビルからぞろぞろと人が出てきて、渋滞が始まり、タクシー乗り場には既に10人程度の列ができていた。徒歩での帰宅は自明だった。徒歩の帰宅の決心をつけ、午後4時半過ぎに方面が同じ方々と一緒に職場を出発した。出発したときには4時間くらい、午後9時前には帰宅できるだろうと考えていた。
その日、なぜかコートを羽織らずに出社していたため、ひどく寒かったが、一緒に帰宅していた会社の人たちと歩いた。この時点では、どんな大きな被害が出ているかを心配するよりも、外の寒さや大勢の人が徒歩で帰宅している異様な光景に気分が高揚していた。
大手町から皇居の脇を通り、霞ヶ関の官庁の間を歩き、六本木通り、246をひたすら下った。一度だけビルの窓ガラスが割れていたのを見たがそれ以外は、地震によるビルの倒壊などを目にすることはなかった。

何が起きているのか?

道の途中でコンビニに寄ったが、おにぎりやサンドイッチなどの食料品は品切れとなっており、肉まん、お菓子、飲み物を調達した。東京中が騒ぎになっていることは肌で感じていた。
黙々と歩き、2、3時間かけ、午後7時頃、渋谷に到着した。すっかり日は落ち、寒さが増していた。防寒着を調達しようと、渋谷のファストファッション店にいくつか行ってみたものの、地震の影響で閉店しており、もはやコートなしで帰宅することを決めた。
渋谷ではトイレを借りるために、家電量販店を訪れた時に、いくつもディスプレイされているテレビに人だかりがあった。なんだろうと、覗き込むと畑をおおっていく津波の映像、何台もの自動車がおもちゃのように津波に転がされている映像を目にした。午後3時に起きた地震が自分の想像以上の災害であることを知らされ、驚いた。
早く帰宅し、何が起きているのかを知りたい。先を急いだ。渋谷駅のバス停ロータリー、246沿いは多くの人たちで溢れていた。

帰宅

渋谷の小休止をはさみ、また246を下り始めた。寒さが増している。途中バスに乗ろうかという話になり、ちょうどよい行き先のバスを見つけ、バス停の列に加わった。しばらくするとバスがバス停に止まったが、人数制限があり、乗車できなかった。残念だったがあまりの渋滞の状況がひどかったため、歩いた方が早く帰ることができる状況だったようだ。
歩いた。ひたすら歩いた。渋谷で恐ろしい津波の映像を見たが、徒歩で帰宅することに頭が一杯だった。寒さはいつしか、足の痛みに変わった。多摩川を渡り、一緒に帰宅していた会社の方とわかれ、一人旅が始まった。もはや、徒歩で帰り切ることへの意地だった。意地で帰った頃には夜11時半を過ぎていた。出発してから7時間が経過していた。

テレビを見ると想像を絶する被害のニュースが飛び込んできていた。