たましいにしたがう
とても大切だけれど、誰も教えてくれないことを考えている。今からメモする内容はスピリチュアルなことで文字におこすと気持ち悪さを伴うかもしれない。念のため、断りをいれておくと、この記事は誰かに伝えるというよりは、僕自身の整理のために書く。誰かに伝えようとするものや理解を得ようとするものではない。とはいえ、共感していただけたら、それは奇跡でとても嬉しいです。
たましい
ヨガの本などで、「スピリット、マインド、ボディ」と3つで人間か世界か何かしらを区分しているときがある。日本語にすれば「たましい、こころ、からだ」。
ヨガはよく、「からだ」から「こころ」にアプローチする方法と言われることがある。例えば、心が沈んでいる時には、胸を開くポーズ、心が高揚しすぎているときは、その逆のポーズを行うことで、心が必要以上に浮き沈むのを抑えることができるような感覚が得られるからだ。それは身体感覚として、とても理解しやすく、すぐに納得できるものだった。
でも、「たましい」という言葉については、まったく理解が及ばなかった。人は「こころ」と「からだ」で完結していおり、わざわざ「たましい」などというよく分からないものを持ち出すことで複雑に感じていたし、「こころ」と「たましい」は同じものなのではないか、区別する必要があるのかとも考えていた。
しかし、最近、「たましい」と「こころ」は全く違うもので、とても大切なものだと感じるようになった。
ミッションや役割としてのたましい
結論から言えば、「たましい」とはミッションや、役割が既に定められた何かだと思う。そして、「たましい」に従うととてもパワフルな感覚を得ることができる。
もう少し詳しく書くと「たましい」が持っているミッションや役割のかけらに気付き、それを促すような行動すると、ちょうど腹の下あたりに熱さを感じたり、骨盤をぐいぐいと押される力を感じる。逆に、何かの行動をして、とてもパワフルな感覚を得られたなら、それは偶然に「たましい」に従って行動したときなんだと思う。
パワフルな感覚はきっと色々あると思うが、今まで感じたものをいくつか書いてみる。
- ちょうど腹の下あたりの熱さ
- 骨盤をぐいぐいと押される力
- 矛盾のなさ、違和感のなさで肩から力が抜ける
- 足の先から、背中から、肩、二の腕から世界に溶け込んでいく
- 世界という泉に身体全部を足からすーっと浸す
ちょうど、おとといにイブサンローランの映画のフライヤーを見つけた。そのコピーとして、「人生で最も大切な出会いは、自分自身との出会い。」と書かれてあった。たましいのミッションや役割にきづくことはまさにそのことなんだと思う。
気付くためのアプローチ
たましいのミッションや役割に気付くためには、きっと様々なアプローチがあるが、全て結果論にすぎない思い込みだと思う。それでもいくつか有効だと思うアプローチを挙げておく。
アプローチ
- ヨガ、禅に取り組む
- 旅に出る
- 言葉にする、文章を書く(いきなり表現する)
- 絵を描く(いきなり表現する)
- コラージュをつくる(いきなり表現する)
- 様々なワークショップに参加する
- 自然の中で遊ぶ(サーフィンやスキー)
- ろうそくやお香を焚く
- いきなりやりたいことをやる
とても重要なのは、誰かに教えてもらうことはできないという点だ。また、頭で考えたり、本を読んだとしても、絶対に!気付くことはない。身体全部を使ったトライアンドエラーしかない。
「こころ」に従ってはいけない
心地いいと思うことが「たましい」の声に従っているときもあるが、常に従えているとは限らない。なぜなら、「たましい」に従うことで、常に気分がいい生活を送れるとは限らないからだ。これ以上ない充実感や、世界とのつながりを感じられることもあれば、人の批判にさらされ、逃げ出したくて仕方がなくなることもあるはずだ。たとえ、たましいに従った生活をしたからといって、生活が良くなることが約束される訳ではないし、人からの評価が常によいわけではない。
ここは、非常に難しく、感受性を高めなくてはいけないポイントで、心地よさを求めるだけだと、たんなる怠惰な時間を過ごしているだけに過ぎないこともある。一方、「たましい」に従うからこその愛情たっぷりのあったかいスープや丁寧にいれた極上のエスプレッソの提供もある。好きなときに、絵を描いても見守ることもある。
従う覚悟
「たましい」に従うことは、常に心地よさを生む約束も、経済的な成功の約束もしてくれない。一見無責任なものだ。何が自分の手元に落ちてくるかはわからない。従い続ければ、きっと、過去に感じたパワフルな感覚を常に持つことができる。という希望的な観測しか言うことができない。
なので、人参をぶら下げた馬のようになることもできないし、「ノーペイン、ノーゲイン」のような単純な取引すら成り立たない。
ただ、「従います」と覚悟を示し続けるしかない。それは、ストイックでもなんでもなく、それが自然な姿だと受け入れる態度が必要なのだろう。
気付くことはスタートに過ぎない
たましいのミッションや役割にきづくと自分自身の力強さや、毛布に抱かれているような安心感を感じることがある。もし、たましいの声に気付くことができたら、それは本当に素晴らしい奇跡的な出来事だ。しかし、大事なのは出会いそのものではない。出会いはスタート地点に過ぎない。その次に待っているのは、具体的に何をすればいいのかということだ。
「たましいにきづき、その声にコミットし続けて生活する」ことだ。
たましいの赤ちゃんを守る
行動することが大事、そんなことは分かっている。でも、行動を始めたばかりのときは、失敗しやすい。いくら、トライアンドエラーが大切といっても、エラーばかりの日々が続けば、高揚感がなくなり、現実に引き戻される。そもそも、トライすること自体の壁も高い。
そうしている間に数日前に感じた感覚は消えて、たましいの声に耳を傾けていた自分が愚かしく思えてくる。そして、「ばかな僕でごめんなさい」と丁寧に自分を傷つけて、たましいを埋葬し、それまでの生活に戻る。
そうならないように、たましいの声とそれを実践しようとする自分を赤ちゃんのように扱い、全力で守ることが大切だ。
たましいの声にきづいたら、それを促す行動をしたい。それが矛盾のない、世界に溶け込む作業のひとつだと今のところ強く感じるから。