新しい資本主義:社会的投資の違和感と希望

社会的投資を行っている団体ARUNにパートナー(出資者)のひとりとして昨年2010年7月から参加しています。12月には実際にカンボジアの投資先を訪れたり、日本では投資先選定のお手伝いをしたりしました。ディレクター4人の方々を中心にARUNを立ち上げてから数年、出資者は50名を超え、出資金額も数千万円の規模にまでなっているはずです。

順調なARUNの一方、個人的には、ここ数カ月ヨガのトレーニングや絵を描くことに夢中になり、うまく貢献できずにいました。加えて、「社会的投資」という言葉に共感しながら、どこか分からない感があり、考え込んでしまっていました。(正確には考えなくなってしまったという方が正しいかもしれない)

しかし、先日、出社中に電車に揺られていたときに、社会的投資への違和感と希望のひとつがキーワードとして挙がってきました。それがきっかけで、もう一度「社会的投資」についての活動へ取り組み、その世界の捉え方を考えたいと思います。

断片的なものですが、備忘代わりとして記載しておきます。
社会投資とは、おそらくこの違和感と希望を行ったり来たりしているのではないかと感じています。

「資本主義」のフレームワークをあてはめることへの違和感

いわゆる「途上国」に対して、「ファンド形式」で資金提供を行うことへの違和感がありました。現在、先進国では「資本主義」のフレームワークで行動してきた結果、その膿がいたるところで生じている状況です。そのように欠陥が明るみに出始めているフレームワークを「答え」として「途上国」に対して提示することにとても違和感を感じます。

投資者×投資先のコミュニティを創造するという希望

一方で、「社会的投資」は従前の「資本主義」のフレームワークからシフトした投資活動を行っていこうという動きです。その象徴的な動きが「個人」が出資を行うことや「投資者」「投資先」のコミュニティを創造することです。現在、ソーシャルメディアSNSのヒットが様々なことについて「個人」にもう一度立ち返ることを促し、カネの流れもそれに応じています。社会的投資も同じ文脈にあるのだとしたら、「個人としての投資者・投資先間のコミュニティ創造」がポイントになると思います。

これから、この文章の中に潜む何かをブラッシュアップしていこう。